使い古された言葉のなかには、変だなと思う言葉が結構あったりします。こういう事柄は、もう話のネタとしては十分なほど議論されてると思いますが、ここはひとつ私も乗っかってみようと思います。

 

「お客様は神様です。」

 

そんなわけないでしょう、と私は思うのです。第一、この言葉で言っている「神」とは、いったいどのような意味なんでしょうか。

神の概念を正当に扱う場合、私の理解するところでは、そこには一神教か多神教かの内の、いずれか一つしかありません。もしも一神教の「神」であるなら、その意味での神は全知全能であるのだから、一々人間の世話になることはおかしいですし、あまねく存在する客=神がいるのだから、全然統一的ではないことになります。

では多神教的な神だとするならばどうかといえば、どうも多神教は概念的な要素一部一部を高めた人格的存在であることがほとんどです。一つ一つ重要な要素を持ってはいるけれども、どれ一つとしてまた完全ではなく、そのような要素が複雑に絡み合うことで織りなされる世界観の、その主役達ということであります。だから多神教的には、とりあえず神であるからにはえらいんですが、要素としては「神」というだけでは説明不足だ、ということになります。

さて日本には古来から八百万という考えがありますが、そこから私が感銘を受けることがあるとすれば、やっぱりこれも「とりあえずありがたい存在である。よくわからないけど、とりあえず全部ありがたいのである。」ということしかなかったりします。確かにお客さんはありがたいものですし、ありがたいと思いつつ行動すれば、より丁寧な対応もできることでしょう。それが八百万(はっぴゃくまん)もいれば、そりゃあ商売も大成功といえます。

つまりこの言葉、字面通りに読み取るなら、一神教の「神」であるならば論理的に見てあり得ない愚鈍な考えですし、多神教から見ておまけをつけて解釈しても、せいぜい願掛けの類でしかない。それに、多神教みたいに一杯神がいるなら、その中には酷い神もいるだろうし、そういうのは別に一つぐらいほっといたっていいんじゃないでしょうか。


こういう言葉を言い始めたのは誰なのか、調べてみると三波春夫さんというお方のようですが(申し訳ないんですが、世代的に、かろうじて「三波春夫でございます」という鉄板ネタしか知りません・・)、公式サイトの方で世間に対する誤解への釈明をわざわざ掲載されていました。

曰く、『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです』 -三島春雄オフィシャルサイト 引用

なるほど、「神前で祈ること」つまり儀式的な要素の、その心構えを抽出し自らの行動の指針とするというのは、個人の心構えとしては素晴らしいものです。

宗教的儀式に対する真摯さ、というのは歴史や文化を見ればそれこそ八百万的に発見され、また同意される事柄でしょう。そして、本人としてもそれ以上のことは述べていない。つまりこれは単なる個人のモットーであって、消費社会に関する道徳一般を述べた事柄では全然なかったわけです。


そして次にこのようなお話が掲載されていました。

「三波さんは、お客様をどう思いますか?」 「うーむ、お客様は神様だと思いますね」 ウワーッと客席が歓声の津波!私ははっとしたが、宮尾君もびっくり。客席と私の顔を見比べて、 「カミサマですか」 「そうです」 「なるほど、そう言われれば、お米を作る神様もいらっしゃる。ナスやキュウリを作る神様も、織物を作る織姫様も、あそこには子供を抱いてる慈母観音様、なかにゃうるさい山の神・・・・・・」

客席はいっそうの笑いの渦。その翌日から、毎日このパターンが続いて、どこもかしこも受けまくった。宮尾君は、お父さんが落語家であり、本人も研究熱心だから、司会者としても一流。漫談もうまい。

三島春雄オフィシャルサイト 引用

これを読んでも、やっぱり発祥元としての「神」という言葉は、多神教側の「八百万」という解釈で受けていたわけです。そして「八百万」にしても、話を受けた側が返すギャグの一部だったようで、これですら真意ではない。本人の仕事に関する真摯な思いが、漫談を通して八百万的に解釈され、そこから伝言ゲームが行われて酷い誤解が発生したというわけです。


それにしても、このような釈明を公式サイトに乗せなければならないぐらい、誤った考えが簡単に流布してしまうとは、恥ずかしいことではありませんか。わざわざ釈明がなされるのは、こういう経緯がある言葉を、単に字面だけ追って自分なりに解釈してしまうこと、そしてその解釈に疑問を持たないことが、いまだに存在することの裏返しなわけです。

そしてその解釈も、せいぜいのところ「神は偉いのだから、俺も偉い。」というぐらいのものでありましょう。宗教的にも論理的にも、そして発祥的にも、全然学や知識に通じてない考えが、ひたすら素朴にまた傲慢に「神」という言葉を再定義した結果、一般に流布しているような妙なニュアンスが出来上がっていたわけです。これは改めるべきです。


「客」とはそもそも「外」のことです。だから昔は「客」は、そのまま外という意味も表しましたし、主に使える一時的な家来としての言葉でも用いられました。自分と外を分けて「主観・客観」とも言います。

私たちは「客」という言葉をもう一度考え直してみる必要があると言えましょう。客は外から来る、故に内に対するような甘えは捨てなければならないし、規律や礼儀は欠かせないのだ、ということは道徳的前提として変わらないとしても、それはそう思う個人の心得を表す事柄でありまして、そもそものところでは、客は絶対的に偉い存在=神のような存在では全然ないのです。

語義的に見れば、客の外は客側からしてまた客である、ということを忘れないようにしなければいけません。