最近マックスヴェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』を読みました。恥ずかしながら、知ってはいたものの、今まで読んでなかったのです。前半の注釈おしゃべりな感じ(勿論、それはウェーバー自身の細かく論理を立てる意気込みと、それにも関わらず比例的に増えていく本筋につけたくない文章に折り合いをつけた結果でしょうけど)を通り越しつつ、後半の事実のラッシュを掛けられるのは楽しいことでありました。社会学文献というのは往々、哲学的文献よりも継続的な刺激にかけることがありますが、やはり統計という強い味方を持っているからして、主張はより鮮烈に映るようです。

彼の主張を極簡潔に述べれば、「資本主義は古来から存在していたけれども、それが今日になってここまで成長したのは、宗教観に伴う熱烈な仕事に対する意志が原因であって、それの対象となる職業はBeruf(天職)と呼ばれる、そしてその理念は、元々自己利益を抜きにした純粋な使命感であったため、華奢を避ける禁欲的な性格と合わさって資本を形成し、「意図せず、結果的に」資本主義をもたらした。」というものです。むろん省きすぎている感はありますが、要は資本主義の精神(「精神」が重要です)なるものは、宗教的理由に多大なる影響を受けたということのようです。救われるということを含めれば、超越的自己利益の為の意思といってもいいでしょう。さてこの本に伴う宗教的な観点は一度置いておくとして、一体日本人、こと我々の20歳~30歳の世代は、どれほどヴェーバーの主張、あるいは成立した条件と、どのくらい合致するのであろうか、ということが気になりました。

私たち日本人はそもそもキリスト圏内に生まれ育っていませんから、こういう天命的なものを想像することが中々難しい。無論過去には神道があり、天皇が絶対的な存在として認識されていたわけで、恐らく戦時中の経済発展はそういうものの影響もあったと思います。ただ、第二次世界大戦が終わり、そしてGHQが来て、天皇が象徴になり、という道筋を歩んだのちの、90年代に生まれた私にとっては、こういう天命的なものは、正直な話、あんまり実感できるものではないのです。だって右翼だとか左翼だとか、あるいは天皇の国際社会的視点での重要性とかがあるとしても、そういうのは勉強して分かるものですし、理解にはあっても宗教的な熱狂は生まれえないのです。天皇様が至極重要な存在である、とは分かっていても、「天皇陛下万歳」なんていって突っ込む気は私はさらさら起きません。死ぬの嫌ですから。

それで結局日常的な話に戻りますと、私たちの世代は一体仕事のやる気とかいうのをどこに求めればいいのかという話になります。現代の消費社会における原動力は消費の欲望に充てられるものだとは思いますが、不思議なことに我々の世代はいろんなものに対する「離れ」ができてきているらしい。車離れ、テレビ離れ、果てはわさびとかマヨネーズとか。本当に離れてるのはそう思ってる方々との世代だと思いつつ、まぁぶっちゃけ個人的な話、いらないものはいらないですし、興味ないことは興味ないです。大体こういう、うんたら離れとかいうのは、我々より年上のおっさん方が、もっと若者に消費をしてほしいと思っているから出る言葉に違いありません。そういわれても消費する必要のないものは消費したくないですし、無駄遣いもできないわけです。でもそうだとするなら、私たちは結局欲望が前提の社会に疑問を持つことにもなりえるでしょう。では原動力はいずこに?強烈に興味のある趣味に、オールインしたらいいんでしょうか。いやそれにしても金がないわけでありますが。我々が最も離れているのは金と権力と良い立場だ、と思うんですが、都合の悪いことは「離れ」にはならんようです。

で、Beruf、つまり天職とは日本では「楽しい仕事」という風に捉えられたりします。確かに好きな職業をできること、そしてそれに楽しみを見出すことはありますし、それをもって「これは私の天職だ」とも言いえます。ところがそれは仕事ですので、ずっと楽しいだけではない。難しいことをやったり、えらく腹立たしいことを言われたりということが勿論ありえるわけです。耐えられるか否かの個人的な差異はありますが、やはり仕事=楽しいという等式で仕事の目的を済ませてしまうのは、何か子供っぽいような感じがします。そもそもの語義からずれてますし、非現実的な感も、責任感を感じさせないものいいでもありますかね。

じゃあ、ということで今度は社会的な貢献が~という話になる。これなら聞くによし、話すによし、大変都合の良い理由です。社会貢献が最も大きい仕事が私の天職である!カッコイイですね。いやしかし、ちょっとまってください。ホントにそんな立派な使命をもって仕事をしている人は、一体どのくらいいるんでしょうか。私だって教育がうんたらとかいう割に、やっぱり稼ぎがなきゃいやです。いくら社会的な貢献があるからといっても、ファミチキ食い上げだったら働きません。愚図な個人の言い分ですが、皆さんも社会的貢献というのはあんまり本音ではないのかなと思ったりします。就活なんかで皆さん「御社の為に~」とかいいますし、それはそれ自体として世辞でいいんですが、私自身としては会社の為に働くなんてちゃんちゃらおかしい話だと思うんですよ。「会社の為に人があるのではない、人の為に会社があるのだ」ってなもんです。それを聞いたウルサイ派のおじさん方は怒り出しそうではありますが。我々は我々の為に働く、そしてそれを通して会社が成長し、経済を通して社会が潤う、これが我々にとって都合のいい道ですし、そもそもそうあるべきだと思います。大体、資本主義の自由経済ってのはそういう前提があって生まれるもんですから、社会貢献なんてものは勝手にそうなってりゃいいって感じでありまして。紆余曲折あっての結果としてはいいんですが、社会貢献をあまりに祭り上げられると怠けものの私なんかはしめやかに爆発四散します。

それで結局我々にとって、天職というに、天命はだめ、消費もまずまず、楽しさもそこそこ、貢献も条件付きな状態にありえるわけであります。一体こんな状況で自分にどう励ましをすればいいのやら。たくさん金を持っても恐らくそんなに物が要らない性分なので、あまり物は買いません。別に宗教的な物事は考えてませんし、楽しいだけは幻想的で、社会貢献というのもなんか気取った感じがします。これつまり労働の原動力というものがあんまりないという状況なのですが、さて皆さんはいかがお過ごしでしょうか。やっぱり結局、ささやかな消費で満足しちゃいます?あ、もしお金残ってたら私に送金して頂いても全然大丈夫です。お礼に免罪符をあげます。

 

 

ちょっと真面目に

 

近代資本主義の成立に関する影響をプロテスタンティズム(ルター・カルヴァン)のBerufに求めた名著。ゾンバルトが資本主義の源流を華奢に求めたことと対比すれば、逆に現代における資本主義がいかにゾンバルトの主張に近いものであるかということも感じられる。その場合はオルテガ的な大衆への悲観も思い浮かばれることだろう。昔の資本主義は自ら資本主義を目指したこともなかった。では今はどうであるかというと、これはボードリヤールの差異の再生産のような、消費の果てなき回転があるだけである。その中での我々は、この現代的で形骸化した主義に関して、目標と合意点を失いうるであろう。